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冒険少年――6



 なにがあろうとも日々は過ぎていく。
 半年も過ぎたころになると、母のいない暮らしが普通になっていた。ずっと前から母はいなかったような気になることさえあった。
 美帆はいつのまにか母親役をするようになっていた。家政婦にきてもらうかという話もあったのだが、なんとなくその話は進展せず、気がつくとそういうことになっていた。家事をこなしながら大学に通うことを、美帆は楽しんでいるようにさえ見えた。
 俊哉にとって、姉の変貌は意外であった。おふくろがいるころは、それこそ縦のものを横にもしなかったあの姉貴が、いまじゃ食事の準備から洗濯、掃除までやっている。ただやっているだけじゃない。嬉々としてやっているように見える。苦笑いするしかないだろう。だが、苦笑いしようがしまいが、美帆の奮闘のおかげで、日々の生活が壊れずに続いているのは事実だ。姉貴に感謝しなくちゃならないな。
 直樹の会社の経営状態は相変わらずだった。明日、潰れることはないにしても、経営状態が劇的に好転したということもなく、長期的に見れば危険な状態であるということに変わりがなかった。母が消えたころよりも、あるいは経営は悪化しているのかもしれない。
 そういったことは、しかし、俊哉にはわからないことだった。別にわからなくてもいいと思っていた。おやじの会社がつぶれるのならそれはそれでしかたがない。いくらおれが気をもんでみても、どうにかなるってものでもない。
 直樹は淡々と暮らしている。美帆とは多少言葉を交わすこともあったが、俊哉とはほとんど口を聞かなくなっていた。以前から、会話の少ない父と子だった。母がいなくなって、その状態にいっそう拍車がかかった。それだけのことだ。煩わしくなくていいじゃないか。
 母の消息についてはなにもわからなかった。おふくろはもう戻らないだろうな。そう思うことは、俊哉に悲しみをもたらさない。結局、おふくろもあのおやじと暮らすのがいやだったんだ。あいつはもうとっくにおふくろを諦めている。あいつというのは直樹のことだ。きっとおふくろが家にいたころから、諦めていたんだ。ふたりが夫婦であることは、とっくの昔に終わっていた。姉貴はどうだろう。美帆はまだ希望を捨てていないようだ。それはそれでいい。
 もしこの半年間で最大の変化があったとすれば、俊哉が学校を休学したことだ。二年生になったとき、本気で辞めようかと思った。このときももう一人の自分に、
「まあそう焦るなよ。やめるのはいつだってできる。しばらく様子を見て、それからでも悪くないだろう」
 そう言われて思いとどまった。確かにそうだ。辞めるのはいつでも辞められる。
 直樹に学校を休学したいと告げたとき、反対されるとは思わなかった。反対はされなかったが、直樹は言った。
「わかった。ただし、一年だ。一年以上休学するのなら、学校を辞めろ」
「わかった」
 俊哉は素直にこたえた。反抗する気はなかった。まあそれもいいか。そう思っただけだ。そのまま辞めるか、復学するか、一年後に決めればいい。この状態をいつまでも続けるつもりは、俊哉にもなかった。学校を辞めようと思ったのは言ってみれば思いつきだった。いても楽しくない場所にいるのはいやだった。退学を思いとどまったのはもうひとりの自分がやめろと言ったからだった。楽しくないことでも、続けなければならないこともある。なんとなく俊哉にも、そのあたりのことはわかっていた。それに学校を休んでも辞めても、学校へ行かなくなった自分がいったい何をはじめればいいのか、俊哉にもまだ見えていなかった。たしかなことは、母親の失踪と学校を休学したことは、何の関係もないということだ。
 とりあえず、俊哉は近所のコンビニでアルバイトをはじめた。

 その日、アルバイトは休みだった。
 俊哉は母方の祖母、志乃のところにきていた。
 母親の旧姓は路崎といった。実家は津市一身田町にあった。浄土真宗高田派の本山、専修寺の近くだ。
 路崎志乃は今年七十八歳になる。やがて八十歳になろうかというのに矍鑠としていた。
 母親は志乃の末娘だった。兄と姉がいる。
 一人っ子だった志乃の夫は養子で、市役所に勤務する真面目な人だった。
 真面目で、利口で、律儀で、元気で、可愛いおばあちゃん。それが志乃だった。俊哉は志乃のことが好きだった。妙なもので、自分の家族――特に父親――に対しては、よそよそしさしか感じていない俊哉だったが、志乃に対しては親近感を持っていた。
 俊哉にはずっと続けていることがあった。志乃は俊哉にとっていわば師匠だったのだ。
 志乃のもうひとつの顔。四百年の伝統を持つ、小太刀の流派を伝える数少ない一人なのだ。家の敷地内に、小さな道場がある。この時代には、おそらくはまるで役に立たないであろう小太刀だが、それでも習いたいという物好きは、少数ながらもいるのだ。俊哉もその物好きの一人だった。
 はじめるきっかけは、子供の頃、母に連れられて路崎家に行き、そこで祖母の稽古風景を見たことだった。小さな祖母が大きな男五人を、あっという間に倒してしまう姿を見て、大感動した。祖母が超能力者に見えた。
 俊哉は小太刀を習いたいといった。両親は反対しなかった。小太刀を習い始めると、たちまちのめりこんだ。厳しい稽古が楽しかった。才能はあったのだろう。めきめきと腕を上げた。祖母の血だと誰もが言った。
 母親が失踪しようが、父親を憎もうが、学校を休学しようが、俊哉がこの時代遅れの習い事を続けたのは、ようするに好きだったからだ。志乃が好きということと志乃の伝えている古武道が好きというのは、俊哉のなかでイコールだった。
「その後、どうだい」
 祖母は母のことを訊いているのだ。
 志乃ちゃんはくるたびに同じ質問をする。
「だめだね。手がかりすらつかめない」
 俊哉はこたえた。稽古のときは敬語を使う。終われば孫と祖母の関係だ。それも仲の良い祖母と孫だ。
「そうかい……」
 志乃ちゃんは表情を変えずに言った。
 あまり母のことは話したくないんだけどな。俊哉は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。志乃ちゃんが母のことで心を痛めていることはよく知っていた。あまり悲しませたくなかったのだ。
「俊哉にもすまないことをしたと思っているよ」
「いきなりなんだよ――」
 志乃ちゃんはくるたびに母のことについて訊ねてくるが、謝られたのはこのときがはじめてだった。
「べつに志乃ちゃんが謝ることじゃないだろう」
「もっと早くお前にも謝りたかったんだよ。あれはわたしの娘だかね」
「娘といっても、もう四十七歳だぜ。志乃ちゃんの責任であるはずがないじゃないか。おふくろが家を出て行ったのは、おふくろ自身の問題だ」
 別に慰めるためにそんなことを言ったのではなかった。
 道場に重苦しい沈黙が訪れた。話題を変えようにも、俊哉はきっかけをなくしていた。沈黙の中に座り込むしかなかった。
 しかし、それも長くなると、どうにかしたくなってくる。
 ある考えがふと心に浮かんだが、それを言葉にすることに躊躇いを感じた。母のことだからだ。自分から母の話題を口にするのはあまり気が進まなかった。
 俊哉は祖母を見つめ、それを話題にするべきかどうか迷っていた。
「どうかしたのかい」
 祖母がそんな俊哉の様子に気づいて訊いてきた。
「うん――本当は志乃ちゃんの前でおふくろの話はしたくないんだけど、訊きたいことがあるんだ」
「何でもいいから言ってごらん」
「わかった――おふくろって、子供の頃はどんなだったの」
「子供の頃ねえ――」
 志乃ちゃんは少し考え、
「ひとことで言えば、不器用な子だったね」
 と、言った。
「不器用だったの」
「手先が不器用とか、そういうことじゃないんだよ。生き方がね、上の二人に比べると、あの子は本当にへたくそだった」
 感覚として、それは何となく納得することができた。確かにおふくろは妙に融通のきかないところがあったな。
「わかるよ、何となく」
「どんなことでも、真正面から受け止める。かわしたり、やり過ごしたりということができない性格なんだろうね。おかげで何度も学校に呼び出されたよ」
「学校に呼び出された? おふくろのことで?」
「そうだよ。納得できないことがあると、先生にでも反論するだから。校則のことでは随分もめたね。停学処分になったこともあるんだよ」
「高校時代?」
「そう、高校二年生のときさ」
「へえー、そうなの」
 これは意外だった。あの母親が、高校時代停学処分になっていたというのは驚きだった。今度のことも、案外その延長にあるのかもしれない。
「俊哉はあの子に似ているね」
「おれが? そうかな――」
 父親に似ているとはよく言われる。容貌も父親に似ているといわれる。おれはそれがいやなんだけどな。
「今度は私から訊いてもいいかい」
「いいよ」
「俊哉はお母さんのことを怒っていないのかい」
 別に怒ってはいなかった。しかし、どうだろう。おれは怒ってもいいのかもしれない。おふくろは家族を捨てて出て行ったのだ。
「そうだな、怒ってないな……普通なら怒っているのかな」
 俊哉は苦笑混じりに言った。
「そうだね、あの子は家族を捨てた。捨てられた家族は怒って当然だろう。まして、あんたはあの子の子供だ」
「でも、腹は立たない。本当だ」
「そうかい――」

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


冒険少年――5

 会話が途絶えた。
 美帆は帰っていくだろうと思った。だが、沈黙の中、美帆は動こうとしなかった。じっと俊哉を見つめていた。
 まだ言いたいことがあるのか。美帆の表情が、この部屋に入ってきたときと変わっていることに気づいた。沈黙の中で、美帆の気持ちに変化があったのだと感じた。
「どうかしたのか?」
 と、俊哉は訊いた。
 美帆はすぐに返事をしなかった。
「どうして父さんを嫌うの?」
 そう訊いてきたのは、数秒後だった。
「自分は好きなのかよ」
「好きってこともないけど……でも、自分の父親だし、そんなに嫌うこともないと思うんだけど」
 直樹が美帆にだけ優しかったということはなかった。ようするに姉貴は鈍感なんだ。俊哉はそう思っていた。おやじの冷たさに、敏感に反応するだけの感受性がないのさ。俊哉はかるく美帆を軽蔑する。でも、この鈍感さって、もしかすると女の特性かもな。ふとそんなことを思ったりする。
「なにがおかしいのよ」
 美帆は少し怒ったような口調で言った。
 俊哉は自分が苦笑を漏らしたことを知っていた。
「気にするなよ。おれと姉貴じゃ考え方がちがうだけさ」
「どうちがうのよ」
「説明してもわからないさ」
「なによ」
「もう帰れよ」
「わかったわよ」
「おやすみ」
「あんた、やっぱり父さんに似てるわ」
「うるせえ」
「またくるから。今日はゆっくりと話ができなかったからね」
 美帆はにやりと笑ってドアを閉めた。
 おれとおやじは似てるか――しゃくにさわるが、言われたのははじめてではなかった。昔から直樹に似ているとよく言われた。そのたびに鏡を見て、おやじとちがうところを探したものだった。
「叔父さんににてハンサムだね」
 三つ上の従姉に言われたことがある。
 ちっとも嬉しくなかった。
「どうしてお父さんを嫌うの……か」
 俊哉は美帆の言葉を言ってみた。
「昔言われたのさ、おれは子供が嫌いなんだってな」
 それは本当だった。はっきり覚えている。五歳の時だ。直樹に甘えようとしたとき、そう言われたのだ。妙なもので、その言葉ははっきり覚えているくせに、どんな状況で聞かされたのか、どうしても思い出せないのだ。覚えているのは、それを言ったときのおやじの冷たい声と態度だ。あれだけははっきりと覚えている。たしかにおやじはハンサムだ。顔立ちが整っているだけに、冷たい表情がこれでもかというほどの効果をあげる。まったく……俊哉は冷笑を浮かべる。
「俊哉、覚えておけ。おれをあてにするな。おまえが大学を出るまでは面倒を見る。それは責任だ。おまえはおれの子供だからな。だからといっておれのことを父親と思わなくてもいい。おれはおまえを愛せない。おまえもおれを愛さなくてもいい。おまえはひとりだ。おれもひとりだ。人間はひとりだ。はっきりさせておこう。おれは子供が嫌いなんだ」
 いまならきっと叫んだだろうな。じゃあなんで結婚して子供を作ったんだよ! でも、あのときのおれはまだほんの子供だった。心がどこまでも冷えていくのを感じていただけだ。
 金と愛情。どちらが重要だろう。俊哉は時々、いや実にしばしば考えることがある。
 たとえば俊哉は生まれてこの方、金で苦労したことはなかった。
 父の直樹は株式会社ヤガミの重役だった。株式会社ヤガミは直樹の祖父が創業者であり、会社は今も創業者一族のものだった。玩具の金型製作からはじまり、その後、工場無人化を進めるための省力機械の設計・製作を主事業として展開してきた。さらに専用機械の設計・製作も行っていた。
 現在、株式会社ヤガミの社長は矢上康一。直樹の父親、俊哉の祖父だ。副社長は長男である忠明が務め、やがては社長になる予定だった。次男の直樹は副社長になる。
 十年ほど前まで、会社の業績は順調だった。しかし、現社長が新規事業に手を出し、それが結果として失敗していからというもの、会社の業績は徐々に下降線を辿り始めた。現在も下降している。
 明日倒産するようなことはないにしても、長期的に見れば、今のうちに手を打っておかなければいずれ経営が危機的状況を迎えるだろうことは、誰の目にも明らかだった。
 現副社長などは、そういう意味ではかなり深刻に状況を受け止めていたが、父である社長にその認識は薄かった。
 現社長は、創業者である自分の父親に対するコンプレックスからかワンマンな性格で、聞く耳を持たない人物だった。
 直樹はどう考えているのだろう。家庭で仕事の話はしない男だった。
 それはともかく、金と愛情、はたしてどっちが大切なのだろう。
 あほらしい。どちらも大切だ。何事も程度の問題さ。金も愛情も、多すぎても少なすぎてもだめなのかもしれない。わかったことを言うなよ。もうひとりの自分が嘲笑う。小僧が生意気なことを言うんじゃないよ。そうだな、頭でわかってるつもりだが、本当のところはわかっちゃいないんだ。わからなくても別にかまやしない。だっておれは十六だぜ。
 それはまあいい。おやじのことだ。おやじは会社のことをどう思っているのかってことだ――きっとどうでもいいんだろう。冷たく言い放つのは、もう一人の自分だ。そいつはいつだって冷笑的に世間を見ている。そいつの声にしたがっていると大きく道を誤ることはない。俊哉は心の中にいるもう一人の自分に、かなり信頼を置いていた。現実にいる誰かよりも、よほど頼りになる相棒だ。
 とにかく、おやじはそんな奴だ。たしかにおれはおやじに似ているのかもしれない。嫌うというのなら、それは一種の近親憎悪かもしれない。実際のところ、自分がほんとうに父親を嫌っているのかどうか。時々、どうしようもない怒りに襲われることがあったが、しかし、普段は赤の他人を眺めているようなものだ。怒りも憎しみも、もう感じない。おれは子供を愛せない。あの言葉はそっくりそのまま、未来のおれが、息子か、あるいは娘に、言う言葉なのかもしれない。ま、それもおれが家庭を持てばの話だが。いまのところ、結婚する気はなかった。
 おふくろはどうしてあんな男と結婚したんだろう。思えばおふくろはありふれた女だった。
 なんだか、重要なことを聞きそびれたような気がするな。
 じゃあ、彼女を探すか。またもう一人の自分が言う。
 俊哉はふいをつかれたような気がした。

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


冒険少年――4



 結論から言うと、直樹は何もしなかった。いかにも何かをしているふりはしていた。たとえば知人に連絡する。警察に捜索願を出す。興信所に調査を依頼する。だが俊哉の見るところ、それら全てはポーズに過ぎなかった。なんとしてでも妻を探し出そうという熱意に、最初から欠けていた。情熱があっても、自らの意思で姿を消した人間を探し出すことは容易なことではない。冷えきった心でいったい何ができる。
 あいつは本気でおふくろを探してなんかいない。俊哉は冷徹に判断していた。そう断定する根拠があったわけではない。言ってみれば、それは感覚だ。しかし、俊哉は自分の感覚を信じていた。直樹という人間の本質的な部分をとらえる感覚――嫌なやつだが、自分の父親だ。父親らしいことは何ひとつしなかったが、それでも十六年一緒にいたのだ。なにを考えているのかだいたいわかる。いや、考えていることがわかるなんて思っちゃいけない。おふくろが消えたあの日の態度を忘れたのか? え? あの冷え切った態度――おやじの冷たさにたじろいだんじゃないのか。あそこまでの冷たさを予想していなかっただろう。うっかり手を触れれば、凍傷にでもなりそうなあの冷たさに適わないものを感じた。もう忘れたのか? もうひとりに自分が嘲笑う。いいさ、笑いたければ笑えよ。
 しかし、それでもとにかく俊哉は、たとえば姉の美帆などに比べれば、自分ははるかに父親を理解していると思っていた。なに、簡単なことだ。あいつが愛しているのは自分だけだ。そう思えばいい。そう思ってみれば、あの男を理解することができる。あの男、おれたちのおやじを。いいかげんに目を開いて物事をしっかり見ろよ、姉貴。俊哉は姉に対しても苦笑を浮かべる。
 とにかく、直樹は何もしなかった。
 あの朝、母親がいなくなっていた日の朝、俊哉の心を凍えさせた一言。
「朝食はどうする」
 俊哉は直樹が嫌いだ。だが妻が失踪しようが、母が家からいなくなろうが、朝食をとり、日常を続けようと言ってのけたあの父親は、確かに正しかったのかもしれない。なにがあろうが生きている限り明日は来る。
 一週間もすると、母のいない暮らしが当たり前のものになりつつあるのを、俊哉は感じていた。
 美帆はまだ引きずっているが、それでも最初のころ――といってもそれはまだ七日前のことなのだが――のように泣き喚くことはなくなっていた。
 おやじにとっては、おふくろがいようがいまいが同じことだ。俊哉は白けた気分で当然のことを当然のように思っていた。直樹にとって妻のいない暮らしは、変化でもなんでもないらしい。なんのことはない、直樹はずっと前からひとりでくらしていたのだ。要するに家庭内別居、いや家庭内離婚だ。両親がいつから寝室を別々にしたのか、俊哉はしらなかった。
 美帆が部屋に訪ねてきたとき、そのことを訊ねてみた。
「なあ、おやじとおふくろはいつから寝室を別々にしたんだ」
 そんな話をするために美帆がきたのでないことはわかっていた。おふくろのことで話をしたいんだろう。そりゃそうだ。この一週間、おふくろのことが話題になることはもちろんあった。しかし、いってみればそれは実務的な話ばかりで、感傷的な話しではまるでなかった。
「警察からなにか言ってきた?」
「何もない」
「興信所の調査は進んでいる?」
「いや、なにも進んでいない」
 そんなやり取りばかりだった。母親が消えた喪失感をどう埋めるかのか、そのあたりの話は誰もしなかった。ときには無意味なことも必要なのだ。架空の物語に胸を躍らせ涙を流したり、誰かの唄を聞いて感動したり、自分でもう歌うことで気持ちが高揚すること、そういったことはいってみれば無駄なことなのだ。涙を流したからといって、明日から収入がはねあがるわけじゃない。まして幸運が天から降ってくるわけでもない。矢上家のことでいえば、涙を流したからといって、日々の暮らしの基本的な部分――食事の支度や選択、掃除、そういったことが自然と処理されるわけではない。しかし、それでも感傷的な気分になり、涙を流したり、怒ったり、そして小さな喜びを見つけて笑うことは必要だった。心がそれを欲するのだ。
 矢上家は標準的な家庭に比べればはるかに経済的に恵まれていた。だが、家庭内は冷え切っている。ここには涙も、怒りも、笑いもない。あるのは絶対零度の空気だけだ。全てを凍らせてしまう、心も、涙も、怒りも、喜びも……。
 姉貴がなにを求めているのかもちろんわかってるさ。俊哉は弟のベッドに腰を降ろしている美帆を眺めつつ心の中で呟いていた。おふくろを探すことになんの熱意も示さないおやじ罵りたいんだろう。ようするにおれに愚痴をこぼしたいんだ。
 ――ちょっと話をしたいんだけど。
 そう言って部屋に入ってきた姉貴の顔を見たときからわかっていたさ。
 俊哉はこのまえラジオから流れてきた『愚痴』という曲を思い出していた。誰が歌っているのかしらない。新人の女性シンガーらしいが、その声はちょっと類のない声だった。柔らかいがどこに強さを秘めた声。その声と懐かしさを感じさせる曲はよくあっていた。中島みゆきに似てるのかな。俊哉はそんなことを思ったりもした。まだ見たことはないけど、でも、たぶん美人じゃないな。苦笑とともに考えていた。美人はあんなに人の心を抉るような歌は歌わないものだ。もし、美人だったらごめんなさいを言うことにしよう。
 とにかく、疲れている人は愚痴をこぼすというその歌は、懐かしいフォークソングの香を持っていた。十六歳の俊哉はもちろん、リアルタイムで懐かしいフォークソングを聴いたことない。母親が好きだったのだ。突然、姿をけしたおふくろが鼻歌で口ずさんでいたのは、《かぐや姫》《中島みゆき》《加藤登紀子》《浅川マキ》《中山ラビ》《佐渡山豊》《加川良》《高石友也》《笠木透》等々……CDも持っていた。そんなわけで俊哉は年齢のわりに、古い歌を知っていた。
 あの唄がおれに教えてくれたんだ。姉貴、あんたは疲れている。だから弟のおれに愚痴をこぼしたいんだ。でも、どうなのかな――それほど疲れているようには見えないけどな。ま、いいか。
「いつだったかしら……」
 いつから両親が寝室を別々にしたのか、美帆の記憶も曖昧らしい。
「どうしてそんなことを訊くのよ?」
「なんとなくな……」
 そう、なんとなくだ。特に理由はない。だから、姉貴がおれの質問に答えなくてもかまわない。でも、本当になんとなくだろうか。俊哉は自分を誤魔化しているような気がした。答えても答えなくてもいい質問なら、しなくてもよかった。姉貴に訊ねたということは、おふくろが消えたことが、おれにとってどうでもいいことではなかったということだ。まあ、それもいい。面倒だから考えるのはよそう。
「おやじはおふくろ愛していなかった」
 と、俊哉は言った。
「わかるわよ」
「おふくろが消えていかにも行方を探しているようなふりはしているが、文字通り格好だけだ。女房に逃げられた」
「そういう言い方やめてよ」
「そういう言い方って」
「じぶんの両親でしょう。女房だなんて……母さんって言いなさいよ」
 俊哉は苦笑を浮かべただけで言い返さなかった。言い返すほどのこともない。苦笑を消し、冷たい表情に戻って話を続けた。自分がどんな表情をしているのか、俊哉にはもちろんわからない。
「とにかく、おやじは女房に逃げられた男を演じている。そういった場合、亭主はどんな行動を取るのか、捜索願も、興信所への依頼も、おふくろの知り合いに連絡するのも、みんな決まり仕事だよ。女房に逃げられた男の行動パターンをおやじはなぞってる。ただそれだけなんだろう」
「どうして、そんなことをするの」
「まわりがうるさいからだろう」
「まわりって?」
「親戚さ。伯父さんや叔母さん、それに――志乃ちゃんの手前がある」
 志乃ちゃんというのは母の母、つまり俊哉の祖母だ。俊哉は昔から志乃ちゃんと呼んでいた。そう呼ぶことになんら違和感を感じなかった。
 母親は百七十センチ近くあったが、祖母の志乃は身長百五十センチそこそこの身長しかない。体全体が小作りでかわいらしいおばあちゃんだ。しかし、それが見せかけであることは、家族の誰もが知っている。筋金入りだ。鋼鉄か超合金でできているようなばあさんなのだ。
「わかるだろう。志乃ちゃんがおふくろを許すと思うか? 大騒動になる」
 美帆は小さく頷いた。
「そうね、志乃ちゃんなら自分で探すと言い出しかねないわね」
「志乃ちゃんは怒ってる。おふくろを見つけ出し、自分で何とかしようとするかもしれない。本気でそう言っているんだぜ。だったら先手をうって探してますってふりをしておかないとな」
 美帆は溜息をもらした。
 俊哉は母親がいなくなった日の夜、家にやってきた志乃ちゃんのことを思い出していた。取り乱したり、大声をだしたり、そんなことはしなかった。志乃ちゃんはどんなときでも物静かだ。しかし、怒っている。志乃ちゃんはおふくろを殺すかもしれないな。俊哉はふとそんなことを思った。そして、そう思うことは、それほど大きく的を外しているとは思えなかった。おやじもそう考えたんじゃないか。だから、探すふりだけはしている。待てよ、じゃあおやじはおふくろのことを諦めてるってわけじゃないのか。あの冷たい態度も、もしかしたらポーズなのか……。
「おやじは知っているような気がするな、おふくろがどこに行ったのか」
 ふともらしたが、さすがに俊哉も本気でそんなことを考えたわけではなかった。ようするに気分だ。感傷が言わせたのか。だったらおれもたいしたことはねえな。感傷でなければ、あるいは期待か。どっちにしても、おれが甘いってことだ。
 俊哉にとっては何気なく言った言葉だったが、美帆にはちょっとした衝撃を与えたようだった。
「どういうこと?」
「どうってこともないが、まあそんな気がしただけだ」
「ちゃんとこたえてよ」
「こたえてるさ。別に根拠のある話じゃないんだ。なんとなくそんな気がしただけさ。おやじの態度を見てると、そんな気がしただけだ……けど、ただの思いつきだよ。あやふやな話だ。気にすんな」
 美帆は俊哉を見つめた。
 俊哉としては苦笑を浮かべつつ、
「とにかく、おやじはおふくろを探す気はない。それだけは確かだな」
 と、言った。その点についてはまちがいがないと思っていた。

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


冒険少年――3

 体温が下がるような直樹の声だった。
 いまこの家では非日常的な出来事がおきている。だってそうだろう。おふくろが消えたんだぞ。俊哉は怒鳴りたくなった。が、いまにも激発しそうな感情とは別に、胸に巨大な空洞ができたような、果てしない虚しさも感じている。感情移入のできないドラマを漫然と眺めているような奇妙な気持ちを噛み締めていた。だがその場の空気を吸っている自分も確かにいる。だからさ、白けてるくせに、おやじを怒鳴りつけたくなるのは……。
 美帆は呆気にとられている。ちらっと表情を見ただけだがわかった。
 それが正常な反応だろう。二十数年連れ添った妻が、ある朝、突然消えてしまった男の、これが態度か――そう思うことは正常だが、それではまだ矢上直樹という生物学上おれたちの父親らしいこの男のことを、理解していないということになる。
 おれは理解しているのか。自問してみる。そうだな、まだ甘かったかな。自嘲の笑みが思わずこぼれそうになる。
 いまの直樹の態度を眺めつつ、自分の認識がまだ甘かったらしいことを、俊哉は感じていた。それもけっこう強く感じている。おれはこのおやじを知った気でいた。本当は何も知らなかったのかもしれない。
「美帆」
 と、直樹はいつもと変わらない口調で言った。
 声をかけられた美帆は俊哉を見た。助けを求めているような目をしていた。俊哉は小さく首を振った。別に意味はない。なんとなく、そう、ただ何となく――。
「なに……」
 と、美帆はこたえた。
 俊哉には美帆の胸の内がわかるような気がした。姉貴は戸惑っている。おやじがあまりにいつもとかわらないものだから、おふくろが消えたという事実を、自分の中でどう処理していいのかわからなくなっている。それって、たぶんおれの気持ちでもあるな。俊哉は急におかしくなった。口元に微かな笑みが浮ぶのを抑えられなかった。おやじはおれの笑いを見ただろうか。もちろん、奴は見てるさ。もうひとりの自分がしらけた口調で言う。だよな――俊哉はこたえた。
「朝食をつくる気はあるか」
 と、直樹は言った。
「お母さんが消えたのに朝ごはんなんてどうかしてるんじゃないの」
 美帆は抗議したが、その声は頼りなかった。
 俊哉にはわかっていた。姉貴のおやじにたいする精一杯の抵抗だ。おれはどうだろう。考えてみて、俊哉は直樹に適わないものを感じた。おれもおやじの冷たさに腰が引けてる。しかし、適わないと思ったからといって、別に自尊心が傷つくようなことはなかった。
「それはそれ、これはこれだ。お母さんを探すにしても、とりあえず仕事に行くにしても、朝食はとらないとな――体を壊しては仕方がない」
「一回くらい朝ごはんを抜いたところで、体なんか壊れないわよ」
「日常を続けることが大事なんじゃないか」
 直樹の口調も眼差しも、そして態度も、決して崩れることはなかった。
 おふくろがどうしていなくなったのかわからないが、いなくなっても不思議じゃないな。俊哉は思った。きっとふたりは夫婦じゃなかったんだ。いつからそうなったのかは知らない。寝室を別にしたときからなのか、それともおれが生まれたときからなのか、そんなことはしらないが、二人が夫婦でなくなって長いということはわかる。
「お母さんは確かにいなくなった。しかし、ここで焦ってみたところで、状況が変わると思うか」
 なるほどたしかにそうだな。俊哉は直樹の言葉に頷いている自分を感じ、また笑いたくなった。今度は笑いを抑えることができた。おやじの言うとおりだ。おふくろが消えても、日常は続いていく。朝おきれば顔を洗う。飯を食う。仕事に出かける。昼飯を食って、家に戻り、夕食を食べ、そして眠る。結局、そんなふうにして日々は続いていくのだ。そう、誰かが消えてもそれは変わらない。だとすると、おやじのこの冷たさは、そういったことを悟った者の落ち着きだろうか。いや、そうは思えない。この冷たさの背景には、何か別のものがある。きっと、何か別のものが。
「母さんの部屋を見ただろう。きちんと片付けられていた」
 直樹は続けた。
「母さんは出て行くつもりだったんだ。家族の誰にも知らせずに。それだけの準備をしていたということじゃないかな。確信犯だよ。だとすると、今ここで焦って母さんを探してみたところで、見つからないだろう。焦って取り乱しても仕方がないのではないか」
 何だおやじはおふくろの部屋を見ていたのか。俊哉は少し安心したような気持ちになった。そして、そんな自分に少しだけ腹を立てた。こんな奴に感心するなんて、どうかしてる。
 俊哉は無表情な父親の顔を眺めながら、それでもある種の強さを感じていた。あるいは、自分が想像している以上の冷たさだ。もぬけの殻の妻の部屋を見て、こんなに冷静でいられる。やっぱり強さじゃない。ただ冷酷なだけだ。
 ひとつだけ認めなければならないことがある。朝飯は食べなければならないということだ。
「お前たちももう大人だ」
 直樹は言った。
「これからどうするか自分で決めるといい。美帆が会社を休んでお母さんを探すというのならそれもいいだろう。俊哉が学校を休むというのならそれもいい。私は仕事に行く。今日は大事な会議がある。お母さんを探すのは、まず自分の責任を果たしてからだ」
 消えた妻を捜すことも責任じゃないのか。俊哉はそう言い返したかったが、やめた。言ったところで、この状況が変わるわけではないと思ったからだ。
「お前たちがしないのなら、私が朝食の準備をする。どうする、食べるか?」
 俊哉と美帆は顔を見合わせた。
 その後、結局、三人は朝食のテーブルに着いた。準備をしたのは美帆だ。トーストとコーヒーだけの簡単なものだった。
 それから、それぞれの職場や学校に出かけていった。
 消えた母親のことをどうするか、その朝の時点では、まだ何も決まっていなかった。

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


冒険少年――2

 寝室の前で美帆は躊躇った。ドアを開けることが怖かったのだという。このドアを開けて、もし母親がいなければ、それは本当にいないということになる。
 母親がいないことはわかっていた。父がそう言った。あの父は冗談など言わない。母がいないと言うのなら、本当にいないのだ。
 美帆は、それでもまずノックをした。呼びかけたが、返事はなかった。そっとドアを開けた。胃のあたりが冷たくなった。寝室は綺麗に片付けられていた。
「ずっと前から使われていない部屋みたいだったわ」
 俊哉は誰もいない母の部屋を想像しようとした。それがうまくできなかったとき、自分がもう何年も母の部屋を覗いたことがなかったのだということを、まったくふいに思い出した。すると何かをなくしたような気持ちが胸の片隅に生まれた。しかし、それはごく小さな感情で、心全体を揺さぶるほどのものではなかった。
 美帆はリビングに戻った。直樹はまだ新聞を読んでいた。話しかけようと思い、できなかった。新聞を読んでいるだけの直樹だったが、冷たい拒絶がいたいほど感じられた。
「どこかに出かけただけじゃないのか」
 俊哉が落ち着いた口調で言ったのは、冷静だからというわけではなかった。いきなりおふくろが消えたと言われても、実感がわかないじゃないか。そうだろう。
「とにかくきてよ」
「行くってどこへ」
 おふくろが消えた。だからどうすればいいんだろう。探すのか? 無理だね。おれはおふくろが消えたことすら気づかず眠っていたのだ。俊哉はどこか自嘲的な気分になった。これからどんなふうに家族は変わっていくんだろう。様々な思いが生まれたが、そのどれにも現実感がともなわなかった。母親はいつもここにいるものだとと思っていた。いつだって、どんなときだって、まるで家具か何かのように、感情もなく、家族の世話をして……しかし、まあ落ち着けよ。俊哉は自分自身に話しかけた。おふくろが本当にいなくなったと決まったわけじゃない。俊哉はまだどこかで、何かの間違いではないかという気分を捨てられずにいた。おれは甘いのかな……。
「とにかく父さんと話をするのよ!」
「落ち着けよ」
「あんたも父さんも、どうかしてんじゃないの! 母さんがいなくなったのよ!」
「喚くなよ! おきたばかりなんだ!」
 思わず怒鳴り返してから、はっとした。自分がひどいしくじりをしたよう気分に襲われた。俊哉は深呼吸をした。おふくろが消えたくらいで熱くなってんじゃねえよ。俊哉は自分に言い聞かせた。
「あんたも、父さんもどうかしてるわ」
「おれとおやじはちがう」
 声は落ち着きを取り戻していたが、心の中で俊哉は吐き捨てるように言っていた。そうとも、あんな奴に似ていてたまるか。父親のことを思うとき、いつも胸に怒りの火が点る。
「とにかく、おやじに訊いてみよう」
 俊哉はさらに落ち着いたが、胸の中で何かが暴れまわっているようだった。そいつが今にも胸を突き破って外に飛び出していきそうなのだ。おれは少しも落ち着いていないかもな――だから、もう一度、深呼吸をした。
 美帆と一緒にリビングに行った。
 ほんとうだ新聞を読んでる。何事もなかったかのように新聞を読んでいる直樹を見たときだ――全てが歪んでいると感じたのは。風景も気分も、この家にあるありとあらゆるものが、つめたくねじれている。そういえば『ねじれた奴』というタイトルの小説があったな……あれは、ミッキー・スピレインだったろうか。俊哉は場違いなことを考えた。気持ちを落ち着かせるためによそごとを考えたのだろうか。自分のことなのによくわからなかった。
 俊哉と美帆は顔を見あわせた。ほらね。美帆は目で語った。
「おやじ、どういうことなんだ」
  俊哉は新聞から決して目を離そうとしない父親に話しかけた。活字の世界に逃げ込んでいるのか。いや、そうじゃない。親父はそんなに情のある男じゃない。自分の父親だ。よくわかってる。こいつの心臓は冷え切った鉄の塊だ。一度でも親父から優しい言葉をかけられたことがあったろうか。記憶にある限り、それはなかった。
「なんで黙ってるんだ」
 俊哉は直樹のそばに立っていた。
 直樹は新聞から目を放そうとしない。俊哉を見ようともしない。本当に新聞を読んでいるんだろうか。
 瞬間、俊哉の頭に血がのぼった。反射的に新聞をひったくっていた。
「答えろよ!」
 怒鳴りつけた。
 普通なら怒るはずだ。しかし、どうだろう。俊哉は父親から優しい言葉をかけられた記憶もなかったが、怒られたという記憶もなかった。
 はたして直樹は怒らなかった。静かに俊哉を見ただけだった。その顔には怒りも、怯えもなかった。深い海の底に沈んでいる難破船のような沈黙を抱え、奪われた新聞を取り戻そうともせず、ただ俊哉を見つめている。
 俊哉の怒りは対象を見失い、急速に萎んでいった。わからない人だと思っていた。自分の父親だが、なにを考えているのかさっぱりわからないところがある。その思いを、いまさらのように深めた。長年連れ添った妻がいなくなったというのに、この氷のような冷たさはどうだろう。理解をこえていた。
 俊哉と美帆は、また顔を見合わせた。美帆は不安ではちきれそうな顔になっていた。
「朝食はどうする」
 父はぽつりと言った。

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学




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