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冒険少年――8



 おふくろは長谷川きよしが好きだったな。俊哉は考えていた。
(なんだ、やっぱりおふくろかさんか)
 もう一人の自分が嘲るように言う。
 うるせえよ。思い出しているだけだろう。
(あいたいんだろう)
 あいたいさ。けど言っとくぜ、おふくろが恋しいからじゃない。はっきりさせたいんだ。なぜ家を出たのか。おやじのことを本当はどう思っていたのか。志乃ちゃんと話していて、よけいそんな気になってきたのさ。
(熱くなるなよ)
 熱くなってなんかいなさ。
(長谷川きよしだろう――)
 そうだ、おふくろは長谷川きよしが好きだった。
(知ってるさ。おふくろさんは長谷川きよしの古いLPをほとんど持っていた。CD化されたものもほとんど持っていたはずだ)
 よく知ってるじゃないか。
(当たり前だろう。おれはおまえだよ)
 もちろんそうだ。俊哉にはわかっている。自分自身と語る。この遊びをはじめていったいどれくらいになるだろう。最近じゃ、ほんとうにもうひとりの自分がどこかにいるみたいに感じる。おれは正常かな……俊哉は微かに笑った。その笑みはどこかに自嘲的な色合いがあった。
(いいじゃないか、正常だろうが異常だろうが。第一、正常と異常というのは、はっきりと線引きのできるものじゃないんだぜ)
 わかってるよ。それはおれが読んだ本に書いてあったことだ――っておまえはおれなんだけどな。
(おふくろさんは長谷川きよしのCDを持っていた。それがどうかしたのか?)
 いつCDを買いにいったんだろうって思ったのさ。あのおばさんがCDを持っている。それは俊哉にとってちょっとした驚きだった。長谷川きよしだけじゃない。おれが子供の頃から聞かされた育った古いフォーク歌手――まだほとんどが現役だから古いというのはあてはまらないかもしれない――のCDも含めて、そうった文化的なものは、あの家の家具みたいなおふくろには一番不似合いなものみたいじゃないか。
(おふくろさんに失礼だぞ)
 そうだな。たしかにそうかもしれない。母親の人格をあまりにもないがしろにしているように思え、さすがに俊哉も自己嫌悪を覚えた。
(ブルースのことだろう)
 そうだった、ブルースだ。
 俊哉が彼女を見たのは、まだほんの一月ほど前のことだった。場所は津市の繁華街の外れ、路上だ。その日、繁華街のアーケード街の中にある本屋にやってきていた。本屋は好きで、特に買いたい本がなくても、暇なときはよく行く場所のひとつだった。しばらく立ち読みをして、結局、何も買わず、本屋を出て、あてもなく歩いていた。すでに学校は休学していた。アルバイトは休みだった。アーケードを出たとき、そのメロディが聞こえた。聞いたとき足が止まったのは、聞き覚えのあるメロディだったからだ。
 それはハーモニカのメロディだった。非凡なものを感じさせた。うまいと感じさせるだけのものを持っていた。次に、聞き覚えのあるメロディだと思った。が、そのメロディをどこで聞いたのか、すぐに思い出せなかった。メロディを思い出すまでの、数十秒、俊哉は立ち止まっていた。
 ヨコスカブルースだ――思い出したとき、真っ先にやってきたのは驚きだった。長谷川きよしはアルバム『街角』の中で、南正人の名曲『ヨコスカブルース』をカバーしていた。南正人も母親の持っていたCDで聞いた。俊哉は長谷川きよしの歌うヨコスカブルースが好きだった。特に間奏がいい。ツインギターで演奏される間奏は、技術云々をこえて、そのフレーズが好きだ。
 そのとき聞こえてきたハーモニカは、ほぼ完全に『ヨコスカブルース』のギターのフレーズをコピーしていた。そうとわかったとき、俊哉はハーモニカのメロディが聞こえてくる方に向って歩き出していた。
 角を曲がると、人だかりができていた。そう多くはなかったが、向こう側が見えない程度の人数はいた。
 俊哉は見物人の後ろから、中を覗き込んだ。
 彼女が歌っていた。それが出会いだった。
 正直驚いた。ハーモニカの音が聞こえるということは誰かが吹いているからだが、まさかそれが女性だとは思わなかった。彼女はギターも弾いていた。7thのコードを刻むギターにも切れがあった。ストリートミュージシャンはあまたいる。女性の弾き語りももちろんいる。しかし、ハーモニカホルダーを首にかけ、しかも相当のテクニックの持ち主となると、珍しかった。もっとも津市など小さな町だ。もっと大きな都会に行けばこういうタイプのストリートミュージシャンもいるのかもしれない。
 ハーモニカの間奏が終わると、彼女は歌いはじめた。凄いのはハーモニカだけではなかった。声も迫力があった。彼女は身長はあるが細身だった。しかし、ハスキーな声は声量があり、パワーがあった。いかにもブルースが似合いそうな声だった。歌もうまかった。彼女は美人だった。俊哉はこのとき、まだ右側からしか彼女を見ていなかったのだ。
(そうだよ、おまえは右側からしか彼女を見ていなかった)
 仕方がないだろう。
(物事の一面しか見ないのはおまえのよくない癖さ)
 きいたふうなことを言うな。
(おふくろさんのことだってそうだろう)
 それとこれとは違う。
(同じだよ)
 もう一人の自分が嘲笑う。
 勝手にしろ。俊哉は心の中で吐き捨てた。
『ヨコスカブルース』を歌い終わると、彼女は何も言わず、次の曲を歌いはじめた。どうやらそれはオリジナル曲のようだった。その曲はブルースそのものではなかったが、近い雰囲気を持っていた。素直にいい曲だと思った。

 この世の中のことを なにひとつ知らなくても 悲しみだけはわかる
 この世の中のことを なにひとつ知らなくても 絶望はいつだってそこにある
 わたしには明日を信じない 今日の幸せも 明日を約束することはない
 …………

 彼女、いくつなんだ。俊哉は曲を聞きながらそんなことを考えていた。
 まだ十分若いように見えた。自分とそれほど歳はちがわないのかもしれない。それにしてはネガティブな曲だ。ただ彼女の持つ暗さは、無意味な明るさと希望を歌うメジャーな歌手よりも、実は俊哉の気分にあっていた。
(暗いねえ、おまえも)
 もうひとりに自分がまた嘲笑う。
 ただ明るいなんて馬鹿だよ。
(親が育て方をまちがったな。明日を信じないというのは、結局、人間不信なんだよ)
 そうなのか? 俊哉は自分自身が言っているはずの言葉に、戸惑いを覚えた。なぜって、そんなことは考えてもみなかったからだ。明日を信じないのは、人間不信――そうなのか?
(おまえ、人は、本当は誰も愛さないと思っているだろう)
 …………
(愛されたことがないから、わからないのさ。人は本当に人を愛することができるということを信じきれない。愛されることのない人間は孤独だ。誰にも愛されず、たった一人で生きていくのなら、救いはない。いまだけの人間は明日に希望を託せない)
 ……おまえ、本当におれなのか。
 笑い声が聞こえたような気がした。もちろん錯覚だ。こいつはおれの潜在意識の声だよ。そうだとも、わかってるさ。
 あの日、三曲、彼女の歌を聴いた。最後の歌を歌い終わると、彼女はハーモニカホルダーを外し、そばにおいてあったバックにいれ、ギターをケースにしまった。
 彼女が歌い終わると俊哉はすぐにその場を離れた。
 俊哉はその女性ストリートミュージシャンを気に入ってしまった。
 次の休み、俊哉は同じ場所に行った。
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テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学


冒険少年――7

 俊哉が失踪した母親に対して怒りを感じていないというのはほんとだった。強がりでもなければ、ポーズでもない。しかし、まったく気にならないかというとそうでもなかった。母親が消えてまだそれほど日がたっていないころ、ふと頭を過ぎったあの疑問――おふくろはあんなやつとどうして結婚したのか。あんなやつというのは言うまでもなく父親のことだ。その疑問は、常に俊哉の胸のどこかにあり、決して消えることがなかった。志乃ちゃんなら知っているだろうか。
 その質問をする前に、訊いておかなければならないことがある。俊哉にとっては重要なことだ。
「志乃ちゃん、おれとおふくろって似てるのかな?」
「似てるよ」
 あっさりと言われた。思わず笑みが漏れた。
「そんなこと言われたことがないよ。おやじに似ているとはよく言われるけれど」
「嬉しくないんだろう」
「おやじに似てるってこと」
「そうだよ」
「おれはおやじが嫌いだよ」
「とにかく、あんたはあの子に似てるよ。不器用なところがそっくりだ」
「不器用って……そうかもな」
「学校のことだってそうだろう。休学した理由は?」
「本当は辞めようと思ってたんだ。おやじがね、一年間は休学にしろって言った。まあそれもありかなって、思ったのさ」
「嫌いなお父さんの言うことでも聞くんだね」
 俊哉は苦笑して、
「たしかに好きじゃないけどね――他に言いようがないから嫌いだって言ってるけど、まあたしかに嫌いなんだけど――どう言えばいいんだろう、どうでもいいって感じに近いんだよね」
 と、言った。言い訳じみているとは自分でも思った。しかしそうとしか言いようがなかった。直樹に対しては、ときどき殺意に似た感情にかられることがある。あくまでも似ているということで、殺意そのものでは、もちろんない。それに――ここが重要だ――いつもってわけじゃない。そう、絶対にいつもじゃない。では普段はどうなのか。もちろんおやじのことは好きじゃないさ。でもそれは憎悪とイコールではない。積極的に憎むのではなく、他人のように感じられるのだ。
「で、理由は? 学校に行きたくなくなった理由は」
 俊哉は答えられなかった。その問題については、自分なりに、これまで散々考えていた。だが答えは出なかった。つまるところ、なんとなくとしか言いようがなかった。答えは出なかったが、自分の選んだ道――つまり学校を休学したことへの後悔はなかった。
「面白くなかったからな――何だろう、すっきりしたものが欲しかった。校則とか受験勉強とか、全てのことがもやもやして、てんですっきりしていない。苛々させることばかりだった。まあそんな感じかな……うまく言えない。金持ちのどら息子のわがままだと思ってもらっていいよ。せいぜいその程度だ。絶対に違うと言えるのは、おふくろのことが原因じゃないってことだ」
 自分が、誰でも納得する理由を説明できないことはわかっていた。若い頃は誰だって迷うことが多い。あるいはそう言ってくれる者もいるかもしれない。しかし、別の見方もある。甘えだ。学校を辞めるの休学をするのと騒いでいるが、ようするに経済的に恵まれているから、そんないい気なことを言っていられるのだ。同い年で、世の荒波にもまれ、懸命に社会を泳いでいる人間はいくらでもいる。そんなことはわかっているさ。わかっていても、おれはこのやり方を選んだ。なぜってもうひとりのおれがやれと言ったからだ。ほんとうにあいつは妙なやつだ――って、結局、おれなんだけどな。やっぱり甘えてるな。学校を辞めるでもなく、行くでもない。宙ぶらりんの状態で、どんな理由を並べてみても、結局誰も納得させることはできない。それでも自分に正直になろうとすればこういうことになる。
「そういうところだよ、あの子に似ているというのは」
「…………」
「自分のことをけっこう冷静に見ているくせに、することは無茶なことばかり。考えてみればたちが悪いねえ。自分の無茶をしりながら無茶をするなんて、確信犯じゃないか。そのくせ動機については自分でも説明できない。悪いことをするときは、いいわけくらい考えておくものだよ。あの子もそうだった」
「おふくろが――」
「しょっちゅう先生にたてついてね。校則は頭から無視する、先生には口答えをする、他校の生徒とは喧嘩をする――どうしてそんなことをしたのかと訊いてもまともに答えない。そのときはそうした方がいいと思ったとか、言ってもわからないとか、そんなことばかり言ってた――こちらを納得させる理由なんて一度も聞かされたことがなかったねえ」
 志乃ちゃんは懐かしそうに言った。おふくろに困らされたことを喜んでいるみたいだった。おふくろにももうひとりの自分がいたのかもしれない。しかし、それとは別に、俊哉は驚きを感じていた。
「おふくろ、喧嘩なんかしたの?」
「したよ。手がつけられなかった」
 俊哉は母親の姿を思い浮かべた。普通のおばさんだった。友人は、綺麗なおふくろさんじゃないかと言ったが、おれの眼から見ればおばさんだ。少なくとも喧嘩沙汰とは無縁に見えた。今も昔も――。
「あの子も小太刀の稽古に熱心だったよ」
「まじ? そんな話しはじめて聞いたよ」
「そうだったかね」
 俊哉は志乃ちゃんを眺めた。志乃ちゃんは意識的におふくろのそういった部分を話さなかったんだ。間違いない。
「筋はよかったね。でも、喧嘩沙汰を起こして破門した。その点、おまえは立派だよ。小太刀の技を喧嘩に使わないから」
「喧嘩なんて嫌いだよ」
 それは本心だった。俊哉は暴力が嫌いだった。あんな不快なものはない。
「おふくろも口下手だったのさ」
 と、俊哉は言った。
「言葉を信じていないんだろう」
 と、志乃ちゃんは言った。
「おふくろが?」
「そしておまえもね。言葉で説明できることなんて本当は何もない。そう思っているんだろう」
 言われてみればそうかもしれない。言葉はどこかで嘘をつく。たしかにそんな気分が自分の中にはある。志乃ちゃんはやっぱり良き理解者だと思った。自分の中で形にならない思いに形を与えてくれる。
「でも――」
「どうした?」
「はじめてだね、志乃ちゃんからおふくろのことをこんなに聞かされたのは」
「そうだったかねえ」
「おふくろは目立たない、地味なおばさんだと思っていたよ。まさか高校時代に停学処分になっていたなんて思ってもみなかった。おふくろもけっこうやるじゃないか」
 本気でそう思った。地味なただのおばさんでもなかったんだ。かつてはとんがっていたんだ。もし、いまのおれがそのころのおふくろにあったらどう思うんだろう。俊哉の心に、細身で長身、目つきの鋭い少女の姿が浮んだ。どこかに近寄りがたい雰囲気があり、いつも何かに怒っているような少女。だめだね、俊哉は心の中で言った。その少女とおふくろがどうしても重ならない。
(そりゃおまえがほんとうのおふくろさんを知らないからさ)
 もう一人の自分が言った。笑ってるじゃないか。
 そうだな、たしかに知らないかもな。
(じゃあ、やっぱりおふくろさんを探し出して確かめてみるか)
 確かめるってなにを――俊哉は戸惑っていた。まただ。もうひとりの自分は、どうやらなんとしてもおふくろを探し出したいらしい。それって甘えてるんじゃないのか。
「大学に行ってからも色々あったんだよ」
 志乃ちゃんは苦笑に紛らせて言った。それは少し誤魔化しているようにも見えた。でも、なにを誤魔化す? おふくろの過去か。
「色々なことって」
「またいつか教えてあげるよ」
「何だよ――」
 俊哉は苦笑するしかなかった。
「おやじはおふくろの色々なことを知っていて結婚したのかな」
「そりゃ知ってるよ」
 まさか――俊哉は思わずもれそうになった言葉を飲み込んだ。
「そうなのか」
 かわりに出たのがそれだった、
「そうだよ」
 志乃ちゃんの言葉には、当て推量で言っているような曖昧さは少しも感じられなかった。ふたりが結婚をした経緯を、志乃ちゃんは知っているのだ。もしかしたら、おれが学校を休学したからこんな話をしてくれているのだろうか。少なくともおふくろが姿を消したから、こんな打ち明け話をはじめてわけじゃないだろう。だよな――俊哉は確信を得るためにもう一人の自分に話しかけた。
(決まっているさ)
 やつははっきりと答えた。それで確信がさらに強く、深くなかった。
「あの二人はおまえが思っている以上に深いところで結びついているのかもしれないよ。お互いを深く理解しあっているのかもしれない」
「まさか……」
 俊哉は言った。さすがににわかには信じることができなかった。
 志乃ちゃんは、曖昧な感じ、推測として、というニュアンスを言葉にまじえている。が、そうじゃないことはわかっていた。あのふたりは深いところでお互いを理解しあっている――志乃ちゃんはそう思っている。あるいは何かを知っている……じゃあなぜ言わないんだろう。
(だからさ、言ってるじゃないか、おふくろを探すしかないって)
 黙ってろよ、いまは何も訊いてねえよ。
 もうひとりの俊哉は、俊哉の抗議を笑って聞き流した。
(これでまた疑惑が大きくなったな)
 疑惑? なんのことだ?
(おやじがおふくろの行く先について知っているかもしれないという疑惑さ)
 そう、それは確かにそうだ。
「わたしも詳しく知らないからね。言ったろう、あの子はいいわけひとつ考えもせずに悪さをしたって。自分のことを説明するのがいやなんだろう。俊哉もそうだろう」
 たしかにそうだった。俊哉は自分の行動や気持ちを説明するのが嫌いだった。
 ほんとうにおやじはおふくろの居所を知っているのかもしれない。
 帰ることになった。
 志乃ちゃんは玄関まで送ってくれた。
「本当のことを言うとさ、志乃ちゃんはおふくろを探し出して、成敗するんじゃないかと思ったんだ。おやじがおふくろを探しているふりをしているのは、そうさせないためじゃないかと思ってたんだぜ、おれ」
 志乃ちゃんは静かに微笑んだだけだった。
 おふくろを見つけても成敗はしそうもないな。少し安心している自分に気づき、自分の中にある普通っぽさを、少しだけ癪だと感じた。やっぱり人とちがった自分でいたいじゃないか。
(そう思うことが普通だよ)
 もう一人の自分が言う。
 じゃあ、普通って何だよ。俊哉は言い返す。
(自分で考えな)
 俊哉は自転車をこぎながら、自分自身と話し合っていた。
 この後の予定は決まっていた。
 ブルースの唄を聴くのだ。

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冒険少年――6



 なにがあろうとも日々は過ぎていく。
 半年も過ぎたころになると、母のいない暮らしが普通になっていた。ずっと前から母はいなかったような気になることさえあった。
 美帆はいつのまにか母親役をするようになっていた。家政婦にきてもらうかという話もあったのだが、なんとなくその話は進展せず、気がつくとそういうことになっていた。家事をこなしながら大学に通うことを、美帆は楽しんでいるようにさえ見えた。
 俊哉にとって、姉の変貌は意外であった。おふくろがいるころは、それこそ縦のものを横にもしなかったあの姉貴が、いまじゃ食事の準備から洗濯、掃除までやっている。ただやっているだけじゃない。嬉々としてやっているように見える。苦笑いするしかないだろう。だが、苦笑いしようがしまいが、美帆の奮闘のおかげで、日々の生活が壊れずに続いているのは事実だ。姉貴に感謝しなくちゃならないな。
 直樹の会社の経営状態は相変わらずだった。明日、潰れることはないにしても、経営状態が劇的に好転したということもなく、長期的に見れば危険な状態であるということに変わりがなかった。母が消えたころよりも、あるいは経営は悪化しているのかもしれない。
 そういったことは、しかし、俊哉にはわからないことだった。別にわからなくてもいいと思っていた。おやじの会社がつぶれるのならそれはそれでしかたがない。いくらおれが気をもんでみても、どうにかなるってものでもない。
 直樹は淡々と暮らしている。美帆とは多少言葉を交わすこともあったが、俊哉とはほとんど口を聞かなくなっていた。以前から、会話の少ない父と子だった。母がいなくなって、その状態にいっそう拍車がかかった。それだけのことだ。煩わしくなくていいじゃないか。
 母の消息についてはなにもわからなかった。おふくろはもう戻らないだろうな。そう思うことは、俊哉に悲しみをもたらさない。結局、おふくろもあのおやじと暮らすのがいやだったんだ。あいつはもうとっくにおふくろを諦めている。あいつというのは直樹のことだ。きっとおふくろが家にいたころから、諦めていたんだ。ふたりが夫婦であることは、とっくの昔に終わっていた。姉貴はどうだろう。美帆はまだ希望を捨てていないようだ。それはそれでいい。
 もしこの半年間で最大の変化があったとすれば、俊哉が学校を休学したことだ。二年生になったとき、本気で辞めようかと思った。このときももう一人の自分に、
「まあそう焦るなよ。やめるのはいつだってできる。しばらく様子を見て、それからでも悪くないだろう」
 そう言われて思いとどまった。確かにそうだ。辞めるのはいつでも辞められる。
 直樹に学校を休学したいと告げたとき、反対されるとは思わなかった。反対はされなかったが、直樹は言った。
「わかった。ただし、一年だ。一年以上休学するのなら、学校を辞めろ」
「わかった」
 俊哉は素直にこたえた。反抗する気はなかった。まあそれもいいか。そう思っただけだ。そのまま辞めるか、復学するか、一年後に決めればいい。この状態をいつまでも続けるつもりは、俊哉にもなかった。学校を辞めようと思ったのは言ってみれば思いつきだった。いても楽しくない場所にいるのはいやだった。退学を思いとどまったのはもうひとりの自分がやめろと言ったからだった。楽しくないことでも、続けなければならないこともある。なんとなく俊哉にも、そのあたりのことはわかっていた。それに学校を休んでも辞めても、学校へ行かなくなった自分がいったい何をはじめればいいのか、俊哉にもまだ見えていなかった。たしかなことは、母親の失踪と学校を休学したことは、何の関係もないということだ。
 とりあえず、俊哉は近所のコンビニでアルバイトをはじめた。

 その日、アルバイトは休みだった。
 俊哉は母方の祖母、志乃のところにきていた。
 母親の旧姓は路崎といった。実家は津市一身田町にあった。浄土真宗高田派の本山、専修寺の近くだ。
 路崎志乃は今年七十八歳になる。やがて八十歳になろうかというのに矍鑠としていた。
 母親は志乃の末娘だった。兄と姉がいる。
 一人っ子だった志乃の夫は養子で、市役所に勤務する真面目な人だった。
 真面目で、利口で、律儀で、元気で、可愛いおばあちゃん。それが志乃だった。俊哉は志乃のことが好きだった。妙なもので、自分の家族――特に父親――に対しては、よそよそしさしか感じていない俊哉だったが、志乃に対しては親近感を持っていた。
 俊哉にはずっと続けていることがあった。志乃は俊哉にとっていわば師匠だったのだ。
 志乃のもうひとつの顔。四百年の伝統を持つ、小太刀の流派を伝える数少ない一人なのだ。家の敷地内に、小さな道場がある。この時代には、おそらくはまるで役に立たないであろう小太刀だが、それでも習いたいという物好きは、少数ながらもいるのだ。俊哉もその物好きの一人だった。
 はじめるきっかけは、子供の頃、母に連れられて路崎家に行き、そこで祖母の稽古風景を見たことだった。小さな祖母が大きな男五人を、あっという間に倒してしまう姿を見て、大感動した。祖母が超能力者に見えた。
 俊哉は小太刀を習いたいといった。両親は反対しなかった。小太刀を習い始めると、たちまちのめりこんだ。厳しい稽古が楽しかった。才能はあったのだろう。めきめきと腕を上げた。祖母の血だと誰もが言った。
 母親が失踪しようが、父親を憎もうが、学校を休学しようが、俊哉がこの時代遅れの習い事を続けたのは、ようするに好きだったからだ。志乃が好きということと志乃の伝えている古武道が好きというのは、俊哉のなかでイコールだった。
「その後、どうだい」
 祖母は母のことを訊いているのだ。
 志乃ちゃんはくるたびに同じ質問をする。
「だめだね。手がかりすらつかめない」
 俊哉はこたえた。稽古のときは敬語を使う。終われば孫と祖母の関係だ。それも仲の良い祖母と孫だ。
「そうかい……」
 志乃ちゃんは表情を変えずに言った。
 あまり母のことは話したくないんだけどな。俊哉は曖昧な笑みを浮かべるしかなかった。志乃ちゃんが母のことで心を痛めていることはよく知っていた。あまり悲しませたくなかったのだ。
「俊哉にもすまないことをしたと思っているよ」
「いきなりなんだよ――」
 志乃ちゃんはくるたびに母のことについて訊ねてくるが、謝られたのはこのときがはじめてだった。
「べつに志乃ちゃんが謝ることじゃないだろう」
「もっと早くお前にも謝りたかったんだよ。あれはわたしの娘だかね」
「娘といっても、もう四十七歳だぜ。志乃ちゃんの責任であるはずがないじゃないか。おふくろが家を出て行ったのは、おふくろ自身の問題だ」
 別に慰めるためにそんなことを言ったのではなかった。
 道場に重苦しい沈黙が訪れた。話題を変えようにも、俊哉はきっかけをなくしていた。沈黙の中に座り込むしかなかった。
 しかし、それも長くなると、どうにかしたくなってくる。
 ある考えがふと心に浮かんだが、それを言葉にすることに躊躇いを感じた。母のことだからだ。自分から母の話題を口にするのはあまり気が進まなかった。
 俊哉は祖母を見つめ、それを話題にするべきかどうか迷っていた。
「どうかしたのかい」
 祖母がそんな俊哉の様子に気づいて訊いてきた。
「うん――本当は志乃ちゃんの前でおふくろの話はしたくないんだけど、訊きたいことがあるんだ」
「何でもいいから言ってごらん」
「わかった――おふくろって、子供の頃はどんなだったの」
「子供の頃ねえ――」
 志乃ちゃんは少し考え、
「ひとことで言えば、不器用な子だったね」
 と、言った。
「不器用だったの」
「手先が不器用とか、そういうことじゃないんだよ。生き方がね、上の二人に比べると、あの子は本当にへたくそだった」
 感覚として、それは何となく納得することができた。確かにおふくろは妙に融通のきかないところがあったな。
「わかるよ、何となく」
「どんなことでも、真正面から受け止める。かわしたり、やり過ごしたりということができない性格なんだろうね。おかげで何度も学校に呼び出されたよ」
「学校に呼び出された? おふくろのことで?」
「そうだよ。納得できないことがあると、先生にでも反論するだから。校則のことでは随分もめたね。停学処分になったこともあるんだよ」
「高校時代?」
「そう、高校二年生のときさ」
「へえー、そうなの」
 これは意外だった。あの母親が、高校時代停学処分になっていたというのは驚きだった。今度のことも、案外その延長にあるのかもしれない。
「俊哉はあの子に似ているね」
「おれが? そうかな――」
 父親に似ているとはよく言われる。容貌も父親に似ているといわれる。おれはそれがいやなんだけどな。
「今度は私から訊いてもいいかい」
「いいよ」
「俊哉はお母さんのことを怒っていないのかい」
 別に怒ってはいなかった。しかし、どうだろう。おれは怒ってもいいのかもしれない。おふくろは家族を捨てて出て行ったのだ。
「そうだな、怒ってないな……普通なら怒っているのかな」
 俊哉は苦笑混じりに言った。
「そうだね、あの子は家族を捨てた。捨てられた家族は怒って当然だろう。まして、あんたはあの子の子供だ」
「でも、腹は立たない。本当だ」
「そうかい――」

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冒険少年――5

 会話が途絶えた。
 美帆は帰っていくだろうと思った。だが、沈黙の中、美帆は動こうとしなかった。じっと俊哉を見つめていた。
 まだ言いたいことがあるのか。美帆の表情が、この部屋に入ってきたときと変わっていることに気づいた。沈黙の中で、美帆の気持ちに変化があったのだと感じた。
「どうかしたのか?」
 と、俊哉は訊いた。
 美帆はすぐに返事をしなかった。
「どうして父さんを嫌うの?」
 そう訊いてきたのは、数秒後だった。
「自分は好きなのかよ」
「好きってこともないけど……でも、自分の父親だし、そんなに嫌うこともないと思うんだけど」
 直樹が美帆にだけ優しかったということはなかった。ようするに姉貴は鈍感なんだ。俊哉はそう思っていた。おやじの冷たさに、敏感に反応するだけの感受性がないのさ。俊哉はかるく美帆を軽蔑する。でも、この鈍感さって、もしかすると女の特性かもな。ふとそんなことを思ったりする。
「なにがおかしいのよ」
 美帆は少し怒ったような口調で言った。
 俊哉は自分が苦笑を漏らしたことを知っていた。
「気にするなよ。おれと姉貴じゃ考え方がちがうだけさ」
「どうちがうのよ」
「説明してもわからないさ」
「なによ」
「もう帰れよ」
「わかったわよ」
「おやすみ」
「あんた、やっぱり父さんに似てるわ」
「うるせえ」
「またくるから。今日はゆっくりと話ができなかったからね」
 美帆はにやりと笑ってドアを閉めた。
 おれとおやじは似てるか――しゃくにさわるが、言われたのははじめてではなかった。昔から直樹に似ているとよく言われた。そのたびに鏡を見て、おやじとちがうところを探したものだった。
「叔父さんににてハンサムだね」
 三つ上の従姉に言われたことがある。
 ちっとも嬉しくなかった。
「どうしてお父さんを嫌うの……か」
 俊哉は美帆の言葉を言ってみた。
「昔言われたのさ、おれは子供が嫌いなんだってな」
 それは本当だった。はっきり覚えている。五歳の時だ。直樹に甘えようとしたとき、そう言われたのだ。妙なもので、その言葉ははっきり覚えているくせに、どんな状況で聞かされたのか、どうしても思い出せないのだ。覚えているのは、それを言ったときのおやじの冷たい声と態度だ。あれだけははっきりと覚えている。たしかにおやじはハンサムだ。顔立ちが整っているだけに、冷たい表情がこれでもかというほどの効果をあげる。まったく……俊哉は冷笑を浮かべる。
「俊哉、覚えておけ。おれをあてにするな。おまえが大学を出るまでは面倒を見る。それは責任だ。おまえはおれの子供だからな。だからといっておれのことを父親と思わなくてもいい。おれはおまえを愛せない。おまえもおれを愛さなくてもいい。おまえはひとりだ。おれもひとりだ。人間はひとりだ。はっきりさせておこう。おれは子供が嫌いなんだ」
 いまならきっと叫んだだろうな。じゃあなんで結婚して子供を作ったんだよ! でも、あのときのおれはまだほんの子供だった。心がどこまでも冷えていくのを感じていただけだ。
 金と愛情。どちらが重要だろう。俊哉は時々、いや実にしばしば考えることがある。
 たとえば俊哉は生まれてこの方、金で苦労したことはなかった。
 父の直樹は株式会社ヤガミの重役だった。株式会社ヤガミは直樹の祖父が創業者であり、会社は今も創業者一族のものだった。玩具の金型製作からはじまり、その後、工場無人化を進めるための省力機械の設計・製作を主事業として展開してきた。さらに専用機械の設計・製作も行っていた。
 現在、株式会社ヤガミの社長は矢上康一。直樹の父親、俊哉の祖父だ。副社長は長男である忠明が務め、やがては社長になる予定だった。次男の直樹は副社長になる。
 十年ほど前まで、会社の業績は順調だった。しかし、現社長が新規事業に手を出し、それが結果として失敗していからというもの、会社の業績は徐々に下降線を辿り始めた。現在も下降している。
 明日倒産するようなことはないにしても、長期的に見れば、今のうちに手を打っておかなければいずれ経営が危機的状況を迎えるだろうことは、誰の目にも明らかだった。
 現副社長などは、そういう意味ではかなり深刻に状況を受け止めていたが、父である社長にその認識は薄かった。
 現社長は、創業者である自分の父親に対するコンプレックスからかワンマンな性格で、聞く耳を持たない人物だった。
 直樹はどう考えているのだろう。家庭で仕事の話はしない男だった。
 それはともかく、金と愛情、はたしてどっちが大切なのだろう。
 あほらしい。どちらも大切だ。何事も程度の問題さ。金も愛情も、多すぎても少なすぎてもだめなのかもしれない。わかったことを言うなよ。もうひとりの自分が嘲笑う。小僧が生意気なことを言うんじゃないよ。そうだな、頭でわかってるつもりだが、本当のところはわかっちゃいないんだ。わからなくても別にかまやしない。だっておれは十六だぜ。
 それはまあいい。おやじのことだ。おやじは会社のことをどう思っているのかってことだ――きっとどうでもいいんだろう。冷たく言い放つのは、もう一人の自分だ。そいつはいつだって冷笑的に世間を見ている。そいつの声にしたがっていると大きく道を誤ることはない。俊哉は心の中にいるもう一人の自分に、かなり信頼を置いていた。現実にいる誰かよりも、よほど頼りになる相棒だ。
 とにかく、おやじはそんな奴だ。たしかにおれはおやじに似ているのかもしれない。嫌うというのなら、それは一種の近親憎悪かもしれない。実際のところ、自分がほんとうに父親を嫌っているのかどうか。時々、どうしようもない怒りに襲われることがあったが、しかし、普段は赤の他人を眺めているようなものだ。怒りも憎しみも、もう感じない。おれは子供を愛せない。あの言葉はそっくりそのまま、未来のおれが、息子か、あるいは娘に、言う言葉なのかもしれない。ま、それもおれが家庭を持てばの話だが。いまのところ、結婚する気はなかった。
 おふくろはどうしてあんな男と結婚したんだろう。思えばおふくろはありふれた女だった。
 なんだか、重要なことを聞きそびれたような気がするな。
 じゃあ、彼女を探すか。またもう一人の自分が言う。
 俊哉はふいをつかれたような気がした。

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冒険少年――4



 結論から言うと、直樹は何もしなかった。いかにも何かをしているふりはしていた。たとえば知人に連絡する。警察に捜索願を出す。興信所に調査を依頼する。だが俊哉の見るところ、それら全てはポーズに過ぎなかった。なんとしてでも妻を探し出そうという熱意に、最初から欠けていた。情熱があっても、自らの意思で姿を消した人間を探し出すことは容易なことではない。冷えきった心でいったい何ができる。
 あいつは本気でおふくろを探してなんかいない。俊哉は冷徹に判断していた。そう断定する根拠があったわけではない。言ってみれば、それは感覚だ。しかし、俊哉は自分の感覚を信じていた。直樹という人間の本質的な部分をとらえる感覚――嫌なやつだが、自分の父親だ。父親らしいことは何ひとつしなかったが、それでも十六年一緒にいたのだ。なにを考えているのかだいたいわかる。いや、考えていることがわかるなんて思っちゃいけない。おふくろが消えたあの日の態度を忘れたのか? え? あの冷え切った態度――おやじの冷たさにたじろいだんじゃないのか。あそこまでの冷たさを予想していなかっただろう。うっかり手を触れれば、凍傷にでもなりそうなあの冷たさに適わないものを感じた。もう忘れたのか? もうひとりに自分が嘲笑う。いいさ、笑いたければ笑えよ。
 しかし、それでもとにかく俊哉は、たとえば姉の美帆などに比べれば、自分ははるかに父親を理解していると思っていた。なに、簡単なことだ。あいつが愛しているのは自分だけだ。そう思えばいい。そう思ってみれば、あの男を理解することができる。あの男、おれたちのおやじを。いいかげんに目を開いて物事をしっかり見ろよ、姉貴。俊哉は姉に対しても苦笑を浮かべる。
 とにかく、直樹は何もしなかった。
 あの朝、母親がいなくなっていた日の朝、俊哉の心を凍えさせた一言。
「朝食はどうする」
 俊哉は直樹が嫌いだ。だが妻が失踪しようが、母が家からいなくなろうが、朝食をとり、日常を続けようと言ってのけたあの父親は、確かに正しかったのかもしれない。なにがあろうが生きている限り明日は来る。
 一週間もすると、母のいない暮らしが当たり前のものになりつつあるのを、俊哉は感じていた。
 美帆はまだ引きずっているが、それでも最初のころ――といってもそれはまだ七日前のことなのだが――のように泣き喚くことはなくなっていた。
 おやじにとっては、おふくろがいようがいまいが同じことだ。俊哉は白けた気分で当然のことを当然のように思っていた。直樹にとって妻のいない暮らしは、変化でもなんでもないらしい。なんのことはない、直樹はずっと前からひとりでくらしていたのだ。要するに家庭内別居、いや家庭内離婚だ。両親がいつから寝室を別々にしたのか、俊哉はしらなかった。
 美帆が部屋に訪ねてきたとき、そのことを訊ねてみた。
「なあ、おやじとおふくろはいつから寝室を別々にしたんだ」
 そんな話をするために美帆がきたのでないことはわかっていた。おふくろのことで話をしたいんだろう。そりゃそうだ。この一週間、おふくろのことが話題になることはもちろんあった。しかし、いってみればそれは実務的な話ばかりで、感傷的な話しではまるでなかった。
「警察からなにか言ってきた?」
「何もない」
「興信所の調査は進んでいる?」
「いや、なにも進んでいない」
 そんなやり取りばかりだった。母親が消えた喪失感をどう埋めるかのか、そのあたりの話は誰もしなかった。ときには無意味なことも必要なのだ。架空の物語に胸を躍らせ涙を流したり、誰かの唄を聞いて感動したり、自分でもう歌うことで気持ちが高揚すること、そういったことはいってみれば無駄なことなのだ。涙を流したからといって、明日から収入がはねあがるわけじゃない。まして幸運が天から降ってくるわけでもない。矢上家のことでいえば、涙を流したからといって、日々の暮らしの基本的な部分――食事の支度や選択、掃除、そういったことが自然と処理されるわけではない。しかし、それでも感傷的な気分になり、涙を流したり、怒ったり、そして小さな喜びを見つけて笑うことは必要だった。心がそれを欲するのだ。
 矢上家は標準的な家庭に比べればはるかに経済的に恵まれていた。だが、家庭内は冷え切っている。ここには涙も、怒りも、笑いもない。あるのは絶対零度の空気だけだ。全てを凍らせてしまう、心も、涙も、怒りも、喜びも……。
 姉貴がなにを求めているのかもちろんわかってるさ。俊哉は弟のベッドに腰を降ろしている美帆を眺めつつ心の中で呟いていた。おふくろを探すことになんの熱意も示さないおやじ罵りたいんだろう。ようするにおれに愚痴をこぼしたいんだ。
 ――ちょっと話をしたいんだけど。
 そう言って部屋に入ってきた姉貴の顔を見たときからわかっていたさ。
 俊哉はこのまえラジオから流れてきた『愚痴』という曲を思い出していた。誰が歌っているのかしらない。新人の女性シンガーらしいが、その声はちょっと類のない声だった。柔らかいがどこに強さを秘めた声。その声と懐かしさを感じさせる曲はよくあっていた。中島みゆきに似てるのかな。俊哉はそんなことを思ったりもした。まだ見たことはないけど、でも、たぶん美人じゃないな。苦笑とともに考えていた。美人はあんなに人の心を抉るような歌は歌わないものだ。もし、美人だったらごめんなさいを言うことにしよう。
 とにかく、疲れている人は愚痴をこぼすというその歌は、懐かしいフォークソングの香を持っていた。十六歳の俊哉はもちろん、リアルタイムで懐かしいフォークソングを聴いたことない。母親が好きだったのだ。突然、姿をけしたおふくろが鼻歌で口ずさんでいたのは、《かぐや姫》《中島みゆき》《加藤登紀子》《浅川マキ》《中山ラビ》《佐渡山豊》《加川良》《高石友也》《笠木透》等々……CDも持っていた。そんなわけで俊哉は年齢のわりに、古い歌を知っていた。
 あの唄がおれに教えてくれたんだ。姉貴、あんたは疲れている。だから弟のおれに愚痴をこぼしたいんだ。でも、どうなのかな――それほど疲れているようには見えないけどな。ま、いいか。
「いつだったかしら……」
 いつから両親が寝室を別々にしたのか、美帆の記憶も曖昧らしい。
「どうしてそんなことを訊くのよ?」
「なんとなくな……」
 そう、なんとなくだ。特に理由はない。だから、姉貴がおれの質問に答えなくてもかまわない。でも、本当になんとなくだろうか。俊哉は自分を誤魔化しているような気がした。答えても答えなくてもいい質問なら、しなくてもよかった。姉貴に訊ねたということは、おふくろが消えたことが、おれにとってどうでもいいことではなかったということだ。まあ、それもいい。面倒だから考えるのはよそう。
「おやじはおふくろ愛していなかった」
 と、俊哉は言った。
「わかるわよ」
「おふくろが消えていかにも行方を探しているようなふりはしているが、文字通り格好だけだ。女房に逃げられた」
「そういう言い方やめてよ」
「そういう言い方って」
「じぶんの両親でしょう。女房だなんて……母さんって言いなさいよ」
 俊哉は苦笑を浮かべただけで言い返さなかった。言い返すほどのこともない。苦笑を消し、冷たい表情に戻って話を続けた。自分がどんな表情をしているのか、俊哉にはもちろんわからない。
「とにかく、おやじは女房に逃げられた男を演じている。そういった場合、亭主はどんな行動を取るのか、捜索願も、興信所への依頼も、おふくろの知り合いに連絡するのも、みんな決まり仕事だよ。女房に逃げられた男の行動パターンをおやじはなぞってる。ただそれだけなんだろう」
「どうして、そんなことをするの」
「まわりがうるさいからだろう」
「まわりって?」
「親戚さ。伯父さんや叔母さん、それに――志乃ちゃんの手前がある」
 志乃ちゃんというのは母の母、つまり俊哉の祖母だ。俊哉は昔から志乃ちゃんと呼んでいた。そう呼ぶことになんら違和感を感じなかった。
 母親は百七十センチ近くあったが、祖母の志乃は身長百五十センチそこそこの身長しかない。体全体が小作りでかわいらしいおばあちゃんだ。しかし、それが見せかけであることは、家族の誰もが知っている。筋金入りだ。鋼鉄か超合金でできているようなばあさんなのだ。
「わかるだろう。志乃ちゃんがおふくろを許すと思うか? 大騒動になる」
 美帆は小さく頷いた。
「そうね、志乃ちゃんなら自分で探すと言い出しかねないわね」
「志乃ちゃんは怒ってる。おふくろを見つけ出し、自分で何とかしようとするかもしれない。本気でそう言っているんだぜ。だったら先手をうって探してますってふりをしておかないとな」
 美帆は溜息をもらした。
 俊哉は母親がいなくなった日の夜、家にやってきた志乃ちゃんのことを思い出していた。取り乱したり、大声をだしたり、そんなことはしなかった。志乃ちゃんはどんなときでも物静かだ。しかし、怒っている。志乃ちゃんはおふくろを殺すかもしれないな。俊哉はふとそんなことを思った。そして、そう思うことは、それほど大きく的を外しているとは思えなかった。おやじもそう考えたんじゃないか。だから、探すふりだけはしている。待てよ、じゃあおやじはおふくろのことを諦めてるってわけじゃないのか。あの冷たい態度も、もしかしたらポーズなのか……。
「おやじは知っているような気がするな、おふくろがどこに行ったのか」
 ふともらしたが、さすがに俊哉も本気でそんなことを考えたわけではなかった。ようするに気分だ。感傷が言わせたのか。だったらおれもたいしたことはねえな。感傷でなければ、あるいは期待か。どっちにしても、おれが甘いってことだ。
 俊哉にとっては何気なく言った言葉だったが、美帆にはちょっとした衝撃を与えたようだった。
「どういうこと?」
「どうってこともないが、まあそんな気がしただけだ」
「ちゃんとこたえてよ」
「こたえてるさ。別に根拠のある話じゃないんだ。なんとなくそんな気がしただけさ。おやじの態度を見てると、そんな気がしただけだ……けど、ただの思いつきだよ。あやふやな話だ。気にすんな」
 美帆は俊哉を見つめた。
 俊哉としては苦笑を浮かべつつ、
「とにかく、おやじはおふくろを探す気はない。それだけは確かだな」
 と、言った。その点についてはまちがいがないと思っていた。

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冒険少年――3

 体温が下がるような直樹の声だった。
 いまこの家では非日常的な出来事がおきている。だってそうだろう。おふくろが消えたんだぞ。俊哉は怒鳴りたくなった。が、いまにも激発しそうな感情とは別に、胸に巨大な空洞ができたような、果てしない虚しさも感じている。感情移入のできないドラマを漫然と眺めているような奇妙な気持ちを噛み締めていた。だがその場の空気を吸っている自分も確かにいる。だからさ、白けてるくせに、おやじを怒鳴りつけたくなるのは……。
 美帆は呆気にとられている。ちらっと表情を見ただけだがわかった。
 それが正常な反応だろう。二十数年連れ添った妻が、ある朝、突然消えてしまった男の、これが態度か――そう思うことは正常だが、それではまだ矢上直樹という生物学上おれたちの父親らしいこの男のことを、理解していないということになる。
 おれは理解しているのか。自問してみる。そうだな、まだ甘かったかな。自嘲の笑みが思わずこぼれそうになる。
 いまの直樹の態度を眺めつつ、自分の認識がまだ甘かったらしいことを、俊哉は感じていた。それもけっこう強く感じている。おれはこのおやじを知った気でいた。本当は何も知らなかったのかもしれない。
「美帆」
 と、直樹はいつもと変わらない口調で言った。
 声をかけられた美帆は俊哉を見た。助けを求めているような目をしていた。俊哉は小さく首を振った。別に意味はない。なんとなく、そう、ただ何となく――。
「なに……」
 と、美帆はこたえた。
 俊哉には美帆の胸の内がわかるような気がした。姉貴は戸惑っている。おやじがあまりにいつもとかわらないものだから、おふくろが消えたという事実を、自分の中でどう処理していいのかわからなくなっている。それって、たぶんおれの気持ちでもあるな。俊哉は急におかしくなった。口元に微かな笑みが浮ぶのを抑えられなかった。おやじはおれの笑いを見ただろうか。もちろん、奴は見てるさ。もうひとりの自分がしらけた口調で言う。だよな――俊哉はこたえた。
「朝食をつくる気はあるか」
 と、直樹は言った。
「お母さんが消えたのに朝ごはんなんてどうかしてるんじゃないの」
 美帆は抗議したが、その声は頼りなかった。
 俊哉にはわかっていた。姉貴のおやじにたいする精一杯の抵抗だ。おれはどうだろう。考えてみて、俊哉は直樹に適わないものを感じた。おれもおやじの冷たさに腰が引けてる。しかし、適わないと思ったからといって、別に自尊心が傷つくようなことはなかった。
「それはそれ、これはこれだ。お母さんを探すにしても、とりあえず仕事に行くにしても、朝食はとらないとな――体を壊しては仕方がない」
「一回くらい朝ごはんを抜いたところで、体なんか壊れないわよ」
「日常を続けることが大事なんじゃないか」
 直樹の口調も眼差しも、そして態度も、決して崩れることはなかった。
 おふくろがどうしていなくなったのかわからないが、いなくなっても不思議じゃないな。俊哉は思った。きっとふたりは夫婦じゃなかったんだ。いつからそうなったのかは知らない。寝室を別にしたときからなのか、それともおれが生まれたときからなのか、そんなことはしらないが、二人が夫婦でなくなって長いということはわかる。
「お母さんは確かにいなくなった。しかし、ここで焦ってみたところで、状況が変わると思うか」
 なるほどたしかにそうだな。俊哉は直樹の言葉に頷いている自分を感じ、また笑いたくなった。今度は笑いを抑えることができた。おやじの言うとおりだ。おふくろが消えても、日常は続いていく。朝おきれば顔を洗う。飯を食う。仕事に出かける。昼飯を食って、家に戻り、夕食を食べ、そして眠る。結局、そんなふうにして日々は続いていくのだ。そう、誰かが消えてもそれは変わらない。だとすると、おやじのこの冷たさは、そういったことを悟った者の落ち着きだろうか。いや、そうは思えない。この冷たさの背景には、何か別のものがある。きっと、何か別のものが。
「母さんの部屋を見ただろう。きちんと片付けられていた」
 直樹は続けた。
「母さんは出て行くつもりだったんだ。家族の誰にも知らせずに。それだけの準備をしていたということじゃないかな。確信犯だよ。だとすると、今ここで焦って母さんを探してみたところで、見つからないだろう。焦って取り乱しても仕方がないのではないか」
 何だおやじはおふくろの部屋を見ていたのか。俊哉は少し安心したような気持ちになった。そして、そんな自分に少しだけ腹を立てた。こんな奴に感心するなんて、どうかしてる。
 俊哉は無表情な父親の顔を眺めながら、それでもある種の強さを感じていた。あるいは、自分が想像している以上の冷たさだ。もぬけの殻の妻の部屋を見て、こんなに冷静でいられる。やっぱり強さじゃない。ただ冷酷なだけだ。
 ひとつだけ認めなければならないことがある。朝飯は食べなければならないということだ。
「お前たちももう大人だ」
 直樹は言った。
「これからどうするか自分で決めるといい。美帆が会社を休んでお母さんを探すというのならそれもいいだろう。俊哉が学校を休むというのならそれもいい。私は仕事に行く。今日は大事な会議がある。お母さんを探すのは、まず自分の責任を果たしてからだ」
 消えた妻を捜すことも責任じゃないのか。俊哉はそう言い返したかったが、やめた。言ったところで、この状況が変わるわけではないと思ったからだ。
「お前たちがしないのなら、私が朝食の準備をする。どうする、食べるか?」
 俊哉と美帆は顔を見合わせた。
 その後、結局、三人は朝食のテーブルに着いた。準備をしたのは美帆だ。トーストとコーヒーだけの簡単なものだった。
 それから、それぞれの職場や学校に出かけていった。
 消えた母親のことをどうするか、その朝の時点では、まだ何も決まっていなかった。

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冒険少年――2

 寝室の前で美帆は躊躇った。ドアを開けることが怖かったのだという。このドアを開けて、もし母親がいなければ、それは本当にいないということになる。
 母親がいないことはわかっていた。父がそう言った。あの父は冗談など言わない。母がいないと言うのなら、本当にいないのだ。
 美帆は、それでもまずノックをした。呼びかけたが、返事はなかった。そっとドアを開けた。胃のあたりが冷たくなった。寝室は綺麗に片付けられていた。
「ずっと前から使われていない部屋みたいだったわ」
 俊哉は誰もいない母の部屋を想像しようとした。それがうまくできなかったとき、自分がもう何年も母の部屋を覗いたことがなかったのだということを、まったくふいに思い出した。すると何かをなくしたような気持ちが胸の片隅に生まれた。しかし、それはごく小さな感情で、心全体を揺さぶるほどのものではなかった。
 美帆はリビングに戻った。直樹はまだ新聞を読んでいた。話しかけようと思い、できなかった。新聞を読んでいるだけの直樹だったが、冷たい拒絶がいたいほど感じられた。
「どこかに出かけただけじゃないのか」
 俊哉が落ち着いた口調で言ったのは、冷静だからというわけではなかった。いきなりおふくろが消えたと言われても、実感がわかないじゃないか。そうだろう。
「とにかくきてよ」
「行くってどこへ」
 おふくろが消えた。だからどうすればいいんだろう。探すのか? 無理だね。おれはおふくろが消えたことすら気づかず眠っていたのだ。俊哉はどこか自嘲的な気分になった。これからどんなふうに家族は変わっていくんだろう。様々な思いが生まれたが、そのどれにも現実感がともなわなかった。母親はいつもここにいるものだとと思っていた。いつだって、どんなときだって、まるで家具か何かのように、感情もなく、家族の世話をして……しかし、まあ落ち着けよ。俊哉は自分自身に話しかけた。おふくろが本当にいなくなったと決まったわけじゃない。俊哉はまだどこかで、何かの間違いではないかという気分を捨てられずにいた。おれは甘いのかな……。
「とにかく父さんと話をするのよ!」
「落ち着けよ」
「あんたも父さんも、どうかしてんじゃないの! 母さんがいなくなったのよ!」
「喚くなよ! おきたばかりなんだ!」
 思わず怒鳴り返してから、はっとした。自分がひどいしくじりをしたよう気分に襲われた。俊哉は深呼吸をした。おふくろが消えたくらいで熱くなってんじゃねえよ。俊哉は自分に言い聞かせた。
「あんたも、父さんもどうかしてるわ」
「おれとおやじはちがう」
 声は落ち着きを取り戻していたが、心の中で俊哉は吐き捨てるように言っていた。そうとも、あんな奴に似ていてたまるか。父親のことを思うとき、いつも胸に怒りの火が点る。
「とにかく、おやじに訊いてみよう」
 俊哉はさらに落ち着いたが、胸の中で何かが暴れまわっているようだった。そいつが今にも胸を突き破って外に飛び出していきそうなのだ。おれは少しも落ち着いていないかもな――だから、もう一度、深呼吸をした。
 美帆と一緒にリビングに行った。
 ほんとうだ新聞を読んでる。何事もなかったかのように新聞を読んでいる直樹を見たときだ――全てが歪んでいると感じたのは。風景も気分も、この家にあるありとあらゆるものが、つめたくねじれている。そういえば『ねじれた奴』というタイトルの小説があったな……あれは、ミッキー・スピレインだったろうか。俊哉は場違いなことを考えた。気持ちを落ち着かせるためによそごとを考えたのだろうか。自分のことなのによくわからなかった。
 俊哉と美帆は顔を見あわせた。ほらね。美帆は目で語った。
「おやじ、どういうことなんだ」
  俊哉は新聞から決して目を離そうとしない父親に話しかけた。活字の世界に逃げ込んでいるのか。いや、そうじゃない。親父はそんなに情のある男じゃない。自分の父親だ。よくわかってる。こいつの心臓は冷え切った鉄の塊だ。一度でも親父から優しい言葉をかけられたことがあったろうか。記憶にある限り、それはなかった。
「なんで黙ってるんだ」
 俊哉は直樹のそばに立っていた。
 直樹は新聞から目を放そうとしない。俊哉を見ようともしない。本当に新聞を読んでいるんだろうか。
 瞬間、俊哉の頭に血がのぼった。反射的に新聞をひったくっていた。
「答えろよ!」
 怒鳴りつけた。
 普通なら怒るはずだ。しかし、どうだろう。俊哉は父親から優しい言葉をかけられた記憶もなかったが、怒られたという記憶もなかった。
 はたして直樹は怒らなかった。静かに俊哉を見ただけだった。その顔には怒りも、怯えもなかった。深い海の底に沈んでいる難破船のような沈黙を抱え、奪われた新聞を取り戻そうともせず、ただ俊哉を見つめている。
 俊哉の怒りは対象を見失い、急速に萎んでいった。わからない人だと思っていた。自分の父親だが、なにを考えているのかさっぱりわからないところがある。その思いを、いまさらのように深めた。長年連れ添った妻がいなくなったというのに、この氷のような冷たさはどうだろう。理解をこえていた。
 俊哉と美帆は、また顔を見合わせた。美帆は不安ではちきれそうな顔になっていた。
「朝食はどうする」
 父はぽつりと言った。

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冒険少年――1



 母が消えた日の朝、父を中心に歪んだ風景が見えた気がした。
 午前七時十五分。ノックの音で目が覚めた。いつになく強くドアを叩く音だった。ドアに鍵はかけていない。ベッド降りる前に、ドアが勢いよく開き、姉の真帆が飛び込んできた。
「たいへん、母さんがいなくなった」
 切迫した顔で叫ぶように言った。まだパジャマ姿だった。美帆もおきたばかりなのだ。
 七月の半ば過ぎ、ようやく梅雨も開け、これから本格的に夏が始まろうという、まさにそのときだ。
 それが全てのはじまりだった。
 矢上家で一番最初に目を覚ますのは母親だった。次に父親が目を覚ます。それから長女の美帆。末っ子の俊哉は一番最後に目を覚ます。美帆がおこしにこなければ、まだ眠っていただろう。いつもぎりぎりに目を覚まし、朝食もろくにとらず、学校に出かけていく。
 しかし、おふくろがいなくなった――どういうことだ。目を覚ましたばかりで、状況が飲み込めなかった。頭の三分の二は、まだ眠りを引きずっている。
「わからねえよ、説明してくれ」
「お母さんが消えたのよ!」
 美帆はほとんど怒鳴っていた。
 それでも一応、説明をはじめた。
 美帆はいつものように午前七時に目を覚ましリビングに行った。父の直樹がひとりで新聞を読んでいた。微かな違和感を覚えた。何かが違う。しかし、なにがおかしいのかわからなかった。
「お母さんは?」
 その言葉が自然に出たとき、はっとした。
 母親の姿がなかった。
「お母さんはいない」
 直樹は新聞に目を向けたままで答えた。
 美帆は父の言葉の意味がわからなかった。
「いないって、どういうこと?」
「いなくなった」
 直樹は新聞を見つめたまま、美帆を見ようともしなかった。
 美帆は頭が真っ白になった。父親がなにを言っているのかまったくわからなかった。もう一度、父に話しかけようとしたが、やめた。これ以上なにを訊いても無駄だと思ったのだ。本当に母がいなくなったのか、自分の目で確かめるために、母の寝室に向った。両親はもう何年も前から、寝室を別にしていた。

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小説作法の読み方……え?

 特に野心があるわけではないが、いわゆる小説作法の類、それからシナリオの書き方的な本はかなり読んだと思う。この手の本はたぶん「いつかぼくも(あるいはわたしも)小説のひとつも書いてやる」とか「もの凄いシナリオをものして、テレビドラマの世界を席巻してやるぜ(あるいは席巻してやるわ)」と思う人が読むものだと思う。

 しかし、そういう野心がない人――小説もシナリオもこりゃ最初から読むもの(もしくはドラマになったものを見るもの)と割り切っている人でも、読んでそんにはならない(と、思いますがどんなものでしょう)。あれは読み物として結構面白い。嘘だと思うなら、騙されたと思って、さあどうぞどうぞ――。

 筒井康隆さんの『乱調文学大辞典』と一緒になっている『あなたも流行作家になれる』なんか本当に面白い。あのとおりにしたからといって、とても流行作家になれるとは思えないが――なれる人もいるかもしれないが、そういった人はたぶんそんなものを読まなくても最初からなれる人だという気がするのだが、とにかく面白かった。たしか筒井康隆さんは、ポプラ社から出した「SF入門」という本でも小説執筆の勧めみたいなことを書いていた。子供向けの本だがこれも面白い。

 誰のエッセイだったか忘れたが、そもそもこの種の『××すると△△になれる』的な本の著者に、超一流の人はいないと書いていたのを読んだことがある。筒井康隆さんも同じことを書いていた。流行作家にいま一歩及ばず(書いた当時)、嗚呼あのときああしておけば一流になれたものをと後悔の臍の緒を噛み切っているからこそ書ける――と、そう書いていた。「後悔の臍の緒云々――」という言い回しは、時々使わせていただいております(笑)。どうです、役に立つでしょう《役にたたねえー(-_-;)》。

 しかし、S・キングも小説作法の類を最近出したから、必ずしも超一流はこの手の本を書かないという方程式はあてはまらないようにも思う。それとも時代は変わったのか。

 ディーン・R・クーンツはその名も「ベストセラー小説の書き方」という本を出している。しかし、読んでみてもこれでベストセラー小説がかけるとは思えなかった。いや、そもそもこれを読んだからといって小説がかけるとすら思えなかった。が、これも読み物としては面白い。文体について語るとき、「マチルダおばさん」を引き合いに出した喩えは、説得力はないが、この人なにを思ってこんなことを書いたんだろう的な面白さはあった。それは、確かにあった。

 都筑道夫さんの本では、かなり残酷に言い切っている。面白い話がかけないと思う人は書けない――と。つまり小説を書くというか、面白い話を作るのは、九割がた才能で努力や練習でどうにかなるものではないというのである。いくらサッカーが好きで努力しても、ロナウジーニョになれないのと同じことだ。いささかみもふたもないが、いっそこのくらいはっきり言ってもらったほうが、さっぱりしていいかもしれない。しかし、どうだろ。ロナウジーニョにはなれそうもないが文章を書くことならできそうな気もする。都筑さんは面白い話がつくれないと思う人は――というような言い方をしていた。つまり自分はつくれると思えばいいわけである。するとこれは思い込みということだ。思い込みなら自己暗示という手もあるぞ。イメージトレーニングでもすればうまく行くかもしれない。

 いくつか読んでみてわかったことがある。皆言っていることが違うということだ。人の数だけ、小説の書き方があるということがわかった。これだけでも立派なものだと思う。それでいてとどのつまり、皆究極の一点にたどり着く。

 たくさん読んで、たくさん書く。

 結局はここにたどり着くのだ。これしかない。つまり小説の書き方というのは、そもそも教えようのないものらしい。言われみれば、そのとおりだという気もする。顔がちがうように個性がちがう。Aにとって最高の方法は、Bにとっての最悪の方法かもしれない。ある人はとにかく構成をしっかり立てろという。S・キングはそんなものはいらないという。本当にそう書いている。思いつくまま気の向くまま、筆を進めればいいというのである。これは必ずしも、小説作法の類ではないが、パソコンのよさは思いつたところから書けることだと書いていた人がいた。構成をしっかりと書いていた人は、確実にS・キングよりも売れていないから、S・キングのいっていることが正しい――と、ならないところがややこしいところだ。

 そうだS・キングはこんなことも書いていた。

『第一稿―10%=第二稿』

 つまり、初稿から10%削除したものが第二稿になると。そうなんですか? 誰か小説を書いている人がいたら教えてください(笑)。

 ぼくは本質的に作家は嘘つきだと思うから、書いていることをそのまま真に受けることはないと思っている。しかし、小説の書き方だって、小説の一形態《強引な持って行きかただね、どうも(^_^;)》だと思えば、純粋に読み物として楽しめばいいと思っている。

 小説は、言ってみれば究極の私的作業みたいなところがある。いってしまえばどれもこれも私小説だ。芸術表現といえども人間行為の一種なら、それぞれの癖があって当たり前だ。だからこそ面白いのだ。どれもこれも同じなら、ちっとも面白くない。芸術作品は、規格品でないから高い金を出してでも買おうという気になる。

金沢栄東を知っていますか

 金沢栄東という歌手を知っている人が何人いるだろう。

 岐阜県の生まれで全盲の歌手。ハーモニカの名手で、長いキャリアがある。

 ぼくがはじめて金沢栄東を見たのは、名古屋にあった『ユッカ』というライブハウスだった。カルチャーショックを受けました。びっくりした。さして大きくもない地下の店で、まさかこんな凄いミュージシャンの演奏を聞けるなどとは思ってもいなかった。世間の広さというものをつくづく感じた瞬間だった。

 その後、社会人になり、はじめて金沢栄東を見たライブハウスもなくなったが、それでも金沢栄東本人は歌い続けていることは知っていた。ただ見る機会は少なくなっていた。
 それからまた何年かたち、金沢栄東という名前は、ぼくの中で完全に過去のものになった。最近になって、なぜか思い立ち、インターネットで検索をかけてみた。

 嬉しかった。金沢栄東は名古屋に住んでまだ歌い続けているらしい。あの歌声とハーモニカをまた聴くことができるのである。

 金沢栄東はブルースを歌う。ハーモニカ――ブルースハープは涙ものです――の名手だった。ギターも味があった。声はやや高く、哀愁があった。

 消息について知ろうと思い立ち、インターネットで調べているときにわかったことだが、かつて音楽業界が金沢栄東をスティービー・ワンダーのイメージで売り出そうとしたことがあったという。ラテン(必ずしもそうではないが)のフォセ・フェリシアーノのイメージがある長谷川きよし(きよしさんごめんなさい、フォセときよしさんはまるで別だとわかっているんです)に対抗して、こちっはスティービーだと安直に考えたのかもしれない(考えたのはプロなんだけどね……)。

 金沢栄東は視覚障害者だ。杖を手放させて、高い靴を履かせ、サングラスをかけさせる――金沢栄東はそれを突っぱねた。自分の生き方とはちがう。そう思ったのだという。

 どんな生き方を選ぶか、それはもちろん個人の権利だ。売り出そうとする業界に背を向けたのも、もちろん金沢栄東の選択でぼくたちがとやかく言うことではない。それに業界の意向に従ったからといって、必ずしもスティービー・ワンダーになれたとは限らない。勝目梓という作家さんが最近出した自伝の中で、いくら売れるためとはいえ、心向き出ないものは書けないものだというようなことを書いていた。過去の出来事に「if」を持ち出すのはよくない事もわかっている。

 ……でも、その話し(金沢栄東=スティービー)を知ってからというもの、ぼくはどうしても《もし》を考えてしまう。実力は申し分ないのだ。もしかしたら、金沢栄東は日本のスティービー・ワンダーとして広く世間に認知され、そして、たった一人の金沢栄東になれたかもしれない。

 こんなことを考えるのは金沢栄東に対して失礼なことかもしれない。しかし、職業柄人に評価されるのは仕方がないと思ってください。ごめんなさい。

 話を続けます……

 ぼくは超弩級のマイナー人間のわりに、案外メジャー指向のところがある。ぼくが好きなものは、皆も好きになって欲しいと思う。この最大の被害者は同居人なのだが、それはともかく、やっぱりミュージシャンである以上、売れることを考えても別に罪ではないように思う。

 問題は売れるために妥協するかどうか……。

 ぼくはサラリーマンを長くやっている。すると妥協することにも慣れてしまう。自分の陣地を一ミリも譲らす生きていける人間はいない。誰だって何某かの妥協はしているはずだ。ほんの少しの妥協でより大きなものをつかめるのなら……

 やっぱりこの問題は難しい。結局、選んだものが最良のものだったのだと考えるしかないのかもしれない。

 とにかく、金沢栄東が歌い続けてくれていたことが、ぼくにとって喜ばしいことだ。





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